2018年7月1日
僕はこの2日間プリーという漁村で現地の色んな人と出会った
ちょっといいホテルで働いてる人、漁師の人、リキシャーの運転手の人、スラムで職なしの人、その子供達
そのほとんどが貧しい生活をしていたが彼らはどこか純粋で心がすさんでなかった
これが当たり前の生活になっていて、それを受け入れていて、何も持ってなくとも僕ら旅行者を暖かく迎えてくれる懐の深さと広い心は持っていた
そして村では誰もが笑顔で声をかけてくれた
プリーは正直貧しくて汚い漁村だ でもプリーの人々の心は先進国の人たちより綺麗だったと思う
このピュアさはこういう場所だからこそ培われたものかもしれない
先進国の都会暮らしの人間にこのピュアさを求めるのは酷なのかもしれない
意識していないこのピュアさは真似しようとして出来るもんでもないだろう
でもだからと言ってこのプリーの村の人を見て感じた事、彼らから受けたホスピタリィをただ時間が過ぎたからという理由で早々に忘れ去ってしまうのはあまりに勿体無く、それこそこの村に来た意味も甲斐もなくなってしまうと思うのだ
旅先で見たものをただの写真と思い出にするのも、今後の自分の人生の糧にするも全部自分次第だ
僕は日本に戻ってからまた日本の感覚と生活に順応していかなければならない
日本でまた仕事を見つけて生活しなければ
もうこの年齢でまたイチからとなるといい仕事に就くのは難しいかもしれない
日本に帰ったら僕もひもじい生活になる可能性は高いのだ
ただそうなったとしても自分を卑下することも卑屈になることも人を羨むことも腐ることも後悔することもない
つらくなったらプリーの漁村の人たちを思い出せばいい
自身の気持ちの持ちようで何とでもなるだろう
そうだ 貧しいからといって心まで貧しくなく事はないのだ