2020年2月27日
世界一周の旅に出て2年が経ちました
僕は2018年2月28日に日本を旅立った
今日は2020年2月27日
つまり丸2年が経った事になる
今日はいい機会なのでよく聞く「自分探しの旅」に焦点を当てて書いてみたいと思う
よく自分探しの旅という言葉を聞くが旅をすれば本当に自分というものが見つかったりするものだろうか
「自分探しの旅」なんて掲げるとなんだか一見意識高い系の旅をしている人にも思える
自分探しの旅って聞こえの良いフレーズだ
ただ大学を休学して世界一周に出てる若い人達が旅に出たからといって急にそんなにも簡単に自分って見つかるものだろうか?人生の答えなんて見つかるもんだろうか?
可能性って話で言えば0%と断言したりしないけど僕は正直少し難しいと思っている
「自分探し」という言葉はよくよく考えてみればかなり漠然としている
そもそもどうなれば自分を探したことになるのか?
その部分の定義づけと結論づけがかなり難しい
自分が何者かを知ることが自分探しなのか?
これからやりたいことを見つけるのが自分探しなのか?
漠然とした言葉な分、それは答えがないものを探しに行くようなものだと思っている
あれは随分前だった
僕がまだ通勤の往復3時間+12時間労働が定時のブラック企業で1日仕事に15〜16時間を捧げてた生活をしていた頃
名前も思い出せないのだがとある女性の世界一周のブログの帰国後の最後のブログを読んだのを覚えている
そこにはこう書かれていた
「恥ずかしいけど正直に言うね。旅に出ても私は私だった。私は変わらなかった。」
その人のブログには最後にこう記されていたのだ
僕はすごく正直だなと思った
僕もそう思っている
自分は自分
時には答えが見つからないようで、でも答えは非常にシンプルでそれは本当は常に自分の中にある
それでも人は迷うので自分の中にある答えを確認しに世界に出てみる
その答え合せの旅がいうなれば皆が言う「自分探しの旅」ってやつではないだろうか
旅をするから自分が見つかるのではなく、もう本当は見つけてる自分の中にある自分を確かめに旅に出てるのではないか
ただこれはちょっと哲学的な考えの部分なのでここに書いてる事はもちろん僕のバイアスがかかったものになる
僕も「2年世界を旅してきて自分は見つかりましたか?」と聞かれると答えられない
明確な答えなんてないと思ってるから
こういう風に書いているからと言って僕は自分探しの旅をする人を否定してるわけでもないし、自分探しの旅なんかするなと言ってるわけでもない
難しいことだが本気で覚悟を持ってそれをやりたいと思っている若者がいるならその背中を押してやるのが大人ってもんだと思う
だから本気でやりたい人を頭ごなしに否定したり止めたりしない
本気ならやればいいと思う
でも一旦自分探しの旅に出る前に鏡で自分の顔を見つめて鏡の中の自分に問いかけてみてほしい
「本当にお前は自分が何者なのか知らないのか?
旅に出ようが出まいがお前はお前だろ。本当は分かってるんじゃないか?」と
自分なんてものは世界のどっかの路上にポンと都合よく落ちてるもんじゃない
本当は皆自分は自分でそれ以外の何でもないと心のどこかでもう分かってるんじゃないだろうか
自分が世界で通用するのか
今の自分はどのぐらいのポジションにいるのか
自分が身につけてきた常識が世界ではどうなのか
自分が知らない世界っていうのはどういうものなのか
もし「自分探し」なんていう言葉が旅の中にあるとすれば自分は自分だとわかった上でそういったものを確認する作業に出る旅だと思う
そしてそういった確認作業の旅の中で世界一周など長い旅をしていると世界のいろんなところに友達や仲間ができたり、自分のやりたい事が見つかったり、日本にはなかった文化を知り経験値が増えたりして人としての視野が広がっていく
長い旅ってそういうものだと僕は思っている
自分自身は皆すでに持っている
それでも自分を探求し続けるなら世界旅行がそうではなく、その人の人生が自身を探求し続ける旅ではなかろうか
人生そのものが自分探しの旅
僕もまたその途中だ